マチココロ

サッカー観戦と本業のお掃除、新潟のよいところを綴っています。

アルビレックス新潟

縁もゆかりもなかったクラブの応援を続けたら、自分の世界が変わり始めた話 < 第3章 >

アルビレックス新潟の応援に対して大いなる夢と希望を持ってスタートした大学生活であったが、自分が思っていたほどアルビレックスどころかJリーグを見ている人もほとんどいなかった。その時ばかりは女子大に入学したことを少しばかり後悔した。

当時の大学生と言えば、mixiの利用からは脱却しつつあり、SNSの主流はFacebookだった。Facebookは知り合い同士の交流を深めるには有効だが、会ったこともない人と接点を持つのはまだまだ難しかった。

出会いをなかなか見つけることが出来ず、特に大きな変化がないまま前期の終わりにさしかかった2008年7月13日。
関東で日曜日ナイターの試合が開催された。J1リーグ第16節横浜Fマリノス戦である。

この試合は日曜日ナイターでさらに夏休み直前の試合だったこともあり、普段の試合と比べて新潟から遠征をしてくるサポーターの方も少なく、アクセスの良い三ツ沢だったにも空席がちらほらとあった。

何気なく着地した席の斜め前にいた関東の皆さまに試合後に声をかけて頂き、次のFC東京戦で一緒に応援をさせて頂けることになったのである。

関東でサポーターが集まるイベントなども見つけられず、本当にサポーター仲間に出会うきっかけがなくて、さらに自分から声をかける勇気もないことに自己嫌悪をし続けていた。
ずるずる4年も独りで応援を続けていたから、この時ばかりは言葉では言い表せないくらい嬉しかった。

嬉しさのあまり、帰宅後すぐに両親に報告をした。
両親は関東に熱心なサポーターの方がいることに驚きながらも、 「良かったじゃない。これで私たちも安心だわ」 と、友人が出来たことを喜んでくれた。

この時、一緒に観戦する仲間が見つかったことのほかに、もう一つ重要なことがあった。
それはサポーターズリンク新潟という存在をスタジアム内で立っていたのぼりで初めて知ったことである。

サポリンはアルビレックス新潟サポーター版の招待制SNSで、加入したい場合はすでに加入されている方の招待を受けて加入する。
アルビレックスが好きな方だけが加入できる、ミクシィのようなものだ。
また、サポリン内で繋がっていくためにはマイサポ申請(マイミク申請のようなもの)をすることで自分の意志で交友関係広めていくことができる。
少なくとも私にとつてスタジアムで直接声をかけるよりはかなりハードルは低かった。

様々な方との交流を通して少しずつ自分の中で、自分の言葉で想いを伝えたいという気持ちが芽生えて来た。そこで私はその中で機能として存在した「日記」を使って色々なことを書き始めたのである。

今この言葉を綴っているブログの原型である。私自身のことを知ってほしいという気持ちもあったが、2008年当時は残留争い真っ只中で、自分に出来ることなら何でもやりたいという気持ちだった。
そして最終戦のガンバ大阪戦の前に書いたのが、「アルビと共に歩むまで」だった。

私の出自に関することだったが、こんなに素敵なクラブが身近なところにあるのだからもっともっと愛してほしい。一緒に最後まで闘おう。そんな想いだった。

元々はサポリン内で限定公開していたが、サポリン内のサポーター仲間さんからの提案でサポリンの公式ブログにアップして頂き、自分でも想像していなかったほどに”マチ”という存在が知られていくことになる。

2008年の終わり私は”アル関ジャイアント宴会シリーズ”に初めて参加した。
アル関ジャイアント宴会シリーズとは、関東在住サポーターによるアルビレックス新潟サポーター向けの年に数回開催される宴会である。

私は関東に住んでいるサポーターに会ってみたいという一心でぴょんと飛び込んでしまった。
当時のアル関ジャイアント宴会シリーズは今のように開かれた会ではなく、当時の幹事さんの交友関係から派生してサポリン内でも募集が開始されたタイミングでの宴会だったと思う。

なので、参加者には元々交流のある方が多い中、学生でお酒も飲まない、新潟に無縁だった私が突然現れたものだから、参加者の方々にとても驚かれたのを覚えている。

それでも私は関東に住んでいるアルビレックスのサポーターがこんなにいること、アルビレックスの話ができることが嬉しくてたまらなかった。

* * *

応援を始めた当初、アルビレックスというチームを応援しているという感覚と新潟という街を応援している感覚は必ずしも一致していなかった。

一度も行ったことがない場所だから。新潟という街に愛着がないから。この感覚が一致しないのだと思っていた。

そんな中、2004年は夏に集中豪雨、秋には中越地震が起きた。新潟県で災害が重なった年である。
大きな災害に胸は痛んだし、国立競技場で開催されたホーム代替試合は足を運んで一生懸命応援した。
当時新潟にも行ったことがなく、知り合いも友人もいない私は目の前のアルビレックスの応援を全力ですることで精いっぱいだった。

高校になって初めて新潟という街に行くことが出来たが、初めての新潟の土地とビッグスワンにただただ感動して終わってしまっていた。

でも今なら言える。
私はアルビレックス新潟も新潟という街も愛していると。

なぜならこの14年間、アルビレックスと歩んで来たことで私は気が付いたから。

街は人なのだと。

最初は小さなきっかけでアルビレックスの応援を始めた。
自分が見たもの、自分が感じたもの、自分が思ったもの、その一つ一つが自分の中で重なり、心を動かして、気が付けばアルビレックスだけではなく、新潟の人も新潟の街も好きになっていった。
新潟での思い出が積み重なれば重なるほど、愛着が生まれた。

だからこそ、もっともっと、皆さまに新潟の街も新潟の人もアルビレックスも愛してほしい。こんな素敵な出会いをくださった皆さまに何かの形で応えたいと思った。
そんな気持ちになったのは2012年に社会人生活をスタートさせた時だった。

私が就職活動をしていたのは東日本大震災が発生した年で、入社した際にしばらく転職活動をするのは難しいだろうと思っていた。
中には内定を貰っていたが本社が東北にあり、会社自体がなくなったり、内定が取り消しをせざえる得ない状況があったと聞いているし、そもそも新卒採用を進めているところも少なくなっていた。何ともすごいタイミングで社会人になったものである。

 サポーターを続けるにあたって最初に壁にぶつかったのが自分のスケジュールについてだった。新人で入ると当然ながら、1人で仕事をすることが出来ない。
教えてくださる先輩の都合でスケジュールが組まれるため、サッカーの日程に合わせることは困難だった。

また今のようにダゾーンでどこでも見れる訳ではなかったため、見れる場所まで移動するのも一苦労だ。さらに私はサービス業だったのでむしろ研修は土日にたくさん組まれた。多くの経験を積める機会があるからである。

結果的に新卒1年目は片手で数えるほどしか試合に行けていない。2012年の残留を決めた札幌戦にも行くことが出来なかった。

学生の時は自分でスケジュールを組むことが出来て、人に振り回されることもなかった。
やりたいことも自分で決められた。

しかし社会人になってお金をもらう以上は、与えられたミッションを遂行しなければならない。
自分だけで動ける訳ではなく、どんな会社でもお客様がいる訳でその中で調整していくということの難しさにも直面した。
しかし、この1年があったから自分は這い上がって来ることが出来たし、部長や同僚にも恵まれて翌年からは観戦試合数を増やすことが出来た。
その点、私は周囲の人たちには本当に恵まれていたと思う。

長い人生において学生の時のようにスタジアムに駆け付けることが全てという考え方は、いずれどこかで破綻する。
スタジアムに駆け付けることができない時に、アルビレックスに対して自分に何か出来ることはないのだろうかと考えるようになった。

* * *

私はこの時期、人生で一番苦渋の決断を下すことになる。
それは社会人2年目に「箏」か「アルビレックス」かを選ばなければならなかったことだ。

高校の時、私は箏曲部(そうきょくぶ)に3年間所属し、全国大会に出場していた。
箏曲とはいわゆる日本のお正月によく聞くお箏(おこと)の演奏である。
私は都立ながら箏曲部が強かった高校に進学して、たまたま部室の前で勧誘され、日本一を目指すことになってしまった。

音楽の演奏経験がない上に左利きという、箏を弾く上で最悪なスタートだったが、25人で音楽を作り出す喜びを、日本一という目標に向かってがむしゃらに過ごした3年間を今でも幸せだったと思っている。結果は3年連続で全国大会に出場しながら最高順位は2位。残念ながら1位を取ることは出来なかった。

もっとうまくなりたいと思って大学に進学しても講師の先生の元に通い、指導を受けていたが、社会人になって練習時間とアルビレックスの観戦時間を両方確保することが難しくなってしまった。

2013年のシーズン開幕前、私は箏ではなくアルビレックスを選ぶことに決めた。

箏が嫌いになった訳ではなかった。1つのことを極めるということがどんなことなのか、講師の先生の姿勢から学んだし、上を目指すということが、自分が出来ると思うことを常に超えていかなければならないことだと教えてもらった。

しかし、自分の技術が上達しても、その先が見えなかった。
高校時代のように順位がつく訳でもない。演奏会に出ても演奏に対して評価を貰える訳ではない。見えないものが多い中で何が一体ゴールなのか分からなかった。

だったらアルビレックスを応援する仲間と、クラブの日本一を目指したい。私ひとりでは絶対に描けない夢だが、出会ったたくさんの仲間と一緒に叶えたいと思った。そのためにもっともっと愛するクラブにお世話になったサポーターの皆さまに貢献できることがしたい。

新潟日報のモアにブログをこのブログを書かせて頂いたのはちょうどこのころだった。
「新潟と無縁でもアイシテルニイガタ」

* * *

アルビレックスを応援するようになってからというもの、たくさんのサポーターの方から「アルビを応援してくれてありがとう」「アルビを選んでくれてありがとう」と言われて来た。私が新潟の出身であったなら、その言葉をかけて頂くことはあっただろうか。14年間、この「ありがとう」という言葉にずっと違和感を覚えてきた。

「なぜアルビレックスを応援しているのですか」

交流関係が一気に広まり始めると、この言葉が自分について回るようになった。

皆さまが興味を持ってくださって私を知りたいから聞いてくださっているのは分かってはいたが、数十回、数百回になって来ると、自分の中でこの言葉を消化出来ない時期があった。

これだけアルビレックスのサポーターの方に温かく迎え入れて貰って、スタジアム以外でも支えて貰って、皆さまから頂いた「ありがとう」に応えることが出来ているのだろうかと。

もちろん私のことを快く思ってくださる方ばかりではなかっただろう。
それでも私は、「ありがとう」という言葉に私なりに応えたかった。

少しでもスタジアムが楽しい場所になるように。一人でも多くの人がスタジアムに行けるように。少しでもサポーターに皆さまの心に寄り添えるように。

ジャイアント宴会の幹事になったのも、サポーター有志で企画している関東発の応援バスツアーの参加者を呼びかけるのも、他のクラブの方と出会いたいと思うのも、ブログに想いをぶつけるのも、今の自分を越えて、もっとアルビレックスに対して皆さまに対して私にできることを見つけたかった。

はじめの一歩は怖い。
そう。
どんなことでも怖いと思っている。

学生の時は初めてがたくさんあった。進学もクラス替えも部活動も。
だから初めてに対する耐性があったと思う。

しかし、社会人になると初めてを回避出来てしまうのである。初めてを選ばない道もできてしまう。たとえはじめの一歩を踏み出したら違う未来が待っているかもしれないと思っても。

14年間アルビレックスを応援してきて、一つだけ自分を褒められることがあるとしたら、
私は「初めて」に飛び込む勇気があったこと。そして「初めて」に挑戦する度胸があったこと。

中学の時の苦い経験も、高校の時の悩みも、大学の時のたくさんの出会いも、社会人になってからの決断も、全ての経験が今の私を作っている。

ここで、何度も聞かれたこの質問にもう一度答えたい。

なぜアルビレックスを応援し続けているのですか。

自分が孤独だった時に寄り添い、楽しい時に共感し、悩んでいた時に受け止め、
悲しい時に共に涙を流してくれた皆さまが、14年間一緒に歩んで来てくださったから。

観客動員のピークから下り坂になり、クラブの成績も下り坂になり、カテゴリーがJ2になってしまったからと言って、この14年間歩んできたこの道は決して消えるものではない。

私は新潟に無縁だったにも関わらず、
新潟の皆さまに本当にたくさんの愛情を頂いて来た。

選手とクラブを支えるサポーターのはずなのに、私自身が皆さまに温かく見守られ、ずっと支えられて来た。

だからこそ、次の14年間はもっともっとクラブを支えられるよう、サポーターの皆さまに恩返しができるよう、次の世代を支えられるようになりたい。

「ありがとう」に応えられるように。

* * *

何度も乗った新幹線。何度も降り立った駅のホーム。
2016年7月30日、両親と降り立ったその景色は特別だった。

両親はヴェルディを心の片隅で応援しつつ、FC東京の応援に熱を入れるようになっていった。
2001年から私は両親とサッカーを見るようになったが、両親は東京スタジアムから出てアウェーのスタジアムに行こうとしなかった。
理由はただ一つ、わざわざホームスタジアムが近くにあるのに、アウェーまで足を運ぶ必要がない、である。

そんな両親と相反して娘はアルビレックス新潟のサポーターになり、楽しそうに全国津々浦々アウェー観戦に繰り出していた。全国各地の楽しいところ、美味しいもの、美しい風景を両親に発信し続けた。10年がかかってしまったがようやく重い腰を上げたのである。

始めは日産スタジアムのホーム側のスタジアムグルメがおいしかったところから始まり、埼玉スタジアム、日立柏サッカー場、等々力陸上競技場と続き、ついに遠征デビューを果たした。そこで選ばれたのが私が応援するアルビレックス新潟のホームビッグスワンでの試合であった。

『私が同じチームを応援していれば、両親を様々な地域のスタジアムに連れ出して親孝行出来たのに』
スタジアムで同じユニフォームを身にまとい、楽しそうに観戦している親子の姿を目にする度に 心のどこかでずっと思っていた。

だからこそ、一緒に新潟に行けたのは嬉しかった。
何度も行ったメディアシップも萬代橋も、ふるさと村もピアBandaiも。
何度も見た景色なのに両親と回るとなんだか楽しかった。

スタジアムでお会いした皆さまと両親もお話をさせてもらって、母がポロッと
「新潟の皆さんは本当に良い人ばかりで良かったわね」と言った。

私の両親は私が1人で外出することに関していつも人の親以上に心配するところがあった。いつ、どこで、誰と会って、何時頃帰宅するのか、必ず伝えないといけなかった。遠出をする時は途中の駅で必ずメールを入れた。もちろん高校生の頃の関東のスタジアム観戦もそうだった。思春期だった当時はこのやりとりにひどく窮屈な思いをしたこともしばしばだった。

しかし2008年に一緒に応援する仲間が出来たと言った時、
「良かったじゃない。これで私たちも安心だわ」と安堵していた。
気が付いた時には、いつどこで誰と何をしているのか、聞かれることは少なくなっていった。

その時に、私の行動を把握していたかったのではなく、本当に私のことをただただ心配していたのだと気づいた。

スタジアムに入ると私と両親はそれぞれのサイドで試合を観戦した。
私はオレンジのゴール裏、両親はメインスタンド。
同じ色のユニフォームを着ることはできなかったが、味の素スタジアム以外のスタジアムで思い出を重ねることはできた。

「新潟の人は出会う人みんなすごく良い人で、食べたごはんも行ったところもみんな良かった。」
それが両親の新潟遠征の感想だった。

この時、私は新潟に無縁のはずなのに、”新潟”が誇らしかった。

どうして私が温かいオレンジのサポーターと新潟の街に惹きつけられているのか、両親にきっとわかってもらえたと思う。
私が無我夢中で愛し続けたこの街をこの街に住む人々を両親が好きになってくれたことは、何よりも嬉しかった。

私は新潟に全く無縁だった。

14年前、アルビレックス新潟を応援することを1人で決意して、無我夢中で応援して来た。
スタジアムに行くために友人の誘いも両親の誘いも数えきれないくらい断った。
友人たちはいつしか私を誘うことを止め、私以外のみんなで出かけて行ってしまったくらいだ。

色んなことを天秤にかけて、アルビレックスを選択してきたのだ。
人生の半分をアルビレックスに捧げてきた。
それが一番良い選択だったかどうかなど、今の自分には分からない。

私は新潟に無縁かも知れない。
それでも人生の半分をこのクラブとこの街と一緒に歩んで来た。

アルビレックスを応援していれば、楽しい時も悔しい時も泣きたい時も笑いたい時もあるだろう。それでも、皆さまと想いを重ねながら、私はこれからもこのクラブと新潟の街を愛していく。




-アルビレックス新潟

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マチ神奈川県川崎市在住、東京都調布市出身。
新潟に無縁だったアルビレックス新潟サポーター16年目、家事代行会社入社8年目。
サッカー観戦、本職のお掃除、サポーターとして経験したこと、新潟のよいところを書いてます。